村岡山城跡 約20分の登山が楽しめます【動画有】

村岡山城跡 約20分の登山が楽しめます【動画有】

2019年3月24日 オフ 投稿者: 3kjiro

福井県勝山市村岡町にある村岡山城跡に行きました。

村岡山(標高 301m、周囲約2K)で、村岡山城跡である。

今日は北側の登り口から登っていきます。

北側登り口に山頂まで640mの看板がありました。勝山市なので恐竜のキャラクターです。

山頂に近づくにつれて周りが明るくなってきました。一人で登りましたが怖いと思う部分もなく熊も出そうな雰囲気も有りませんでした。

開けた部分に着きました。正面の少し高くなっている丘が頂上だと思います。

頂上への登り口がありました!

頂上には案内板や三角点がありました。

頂上付近は主郭(本丸)跡、二の丸跡や空堀、堀切があり、 一向一揆が一時的に築いた山城のイメージはない。その後に入部した柴田義宣や勝安時代に居城として整備されたものであろう。特に主郭の東側は畝状空堀群で防御態勢を強化している。

 主郭からは勝山市街地や九頭竜川から大野方面や越前平野も遠望できる。

 この山と城が有名になったのは一向一揆と平泉寺との攻防による。

 天正2(1574)年2月、信長の朝倉攻めから1年後、一向宗の和田本覚寺などに率いられた越前一向一揆が蜂起し、朝倉氏の有力一族でありながら、最後に義景を裏切り、自刃に追い込んだ朝倉(土橋)景鏡が、家族と近臣を引き連れ逃げ込んだ平泉寺を攻撃した。

 初戦は平泉寺が撃退したものの、やがて両軍は村岡町滝波付近で膠着状態になったが、4月に入ると一揆勢は戦いを有利にすすめるために、村岡山に砦を築いて平泉寺勢と対抗しようとした。平泉寺勢は、村岡山に砦を築かれるのはいかにも不利と、土橋(朝倉)景鏡を大将として村岡山を攻撃した。しかし、一揆側は、逆に 暮見山がら三頭山を越えて手薄となった平泉寺に攻め込んだ。こ の時、平泉寺にはわずかな僧と稚児、従者しかおらず、空き屋同然だったため、 北谷の明王院をはじめ放火され、その火が講堂や坊舎に燃え移った。これを知った村岡山近くに布陣していた多くの平泉寺勢は急いで平泉寺へ退去しようとしたが、逆に追い討ちをかけられ敗退、結果全山が焼失し 平泉寺は滅亡した(ここから勝った山、かちやまとして勝山の地名が起こった)。

しかし、翌年には越前の一向一揆は織田軍に平定され、越前の統治をまかされた柴田勝家は、一族の柴田義宣に勝山地方を支配させ、義宣は村岡山城を拠点とした。

 その義宣は一向一揆の残党のたてこもる谷城(勝山市北谷町谷)や野津又城(現野向町北野津又)を攻撃したが敗れ戦死し、そのあとは勝家養子柴田勝安(佐久間盛政弟)がここに城を構えた。

 しかし勝安は1580(天正8)年、袋田村に新しく勝山城(現市民会館の場所)を築城し、村岡山城を廃城とした。

この大きな石碑もあり、どうやって山頂に運んだのか見当もつきません!

360°見渡せますが正面に恐竜博物館が見える写真をブログに載せます( ^ω^ )

最後まで閲覧頂きありがとうございました。

登山の様子や山頂の様子が分かるので良かったら動画の視聴も宜しくお願い致します。

福井県民でもあまり知らない、知られていないローカルスポット、福井県の穴場観光地を紹介しました。

Follow me!