新田義貞公墓所 明智光秀公ゆかり称念寺【動画有】

新田義貞公墓所 明智光秀公ゆかり称念寺【動画有】

2019年8月4日 オフ 投稿者: 3kjiro

福井県坂井市丸岡町長崎にある新田義貞公墓所に行きました。

まだ新幹線は開通していませんが、新幹線の脇をあわら市方面に走っていると左手に新田義貞公墓所の看板がありました。

正面まで車で行きましたが駐車場が見当たらないのでさっきの看板の所にある墓地の駐車場に停めました。

ここなら車は10台ほど停めれます!

停めた後歩いて称念寺の正面にいきました。

正面の門にこの様な貼り紙がありました。貼り紙に従い横の小さい扉から中に入りました。

綺麗に手入れされた庭が広がっていました。

新田義貞公墓所は称念寺内にあります。

新田公は、1333年5月に新田荘生品神社で兵を挙げて以来、一度も故郷に帰ることなく全国を転戦して1338年に戦死されました。毎日が生死の現実であり、戦乱や病気・けがなどで多くの人々の死とも向かい合う経験をしました。全国の人々が敵味方に分かれて争いあうなど、価値観の混乱した時代でもあったのです。南朝方のリーダーとして、一人の人間としてぶれることなく生き抜いた新田公にとって、その心の支えとなる本当の信仰が根底にあったことは、十分伺えることです。称念寺には託阿上人と言う時宗の高僧が、ちょうど新田公が越前に来られた時に滞在していました。またすべてを捨てて信仰に生きた時宗の坊さんは「陣僧」といって、多くの武士団に従軍僧として身一つで付き添っていました。さらに各地の時宗道場は、念仏信仰の場であり、お茶や連歌などのサロンでもありました。すべてを捨てて命がけで、ただ念仏勧進の遊行上人のお姿は、命を懸けて合戦に散った新田公とあい通じるものがあり、称念寺と言う念仏道場で真剣に、お互いが人生を語ったのでしょう。

なお、新田義貞が戦死したとされる場所(福井市新田塚町)は、史跡「燈明寺畷新田義貞戦没伝説地」として指定されている。

明智光秀公ゆかりの寺 称念寺については

光秀は、弘治2(1556)年に齊藤義龍の大軍に敗れ、妻の熈子や家族と伴に、越前大野を経て越前の称念寺に来ます。これは光秀が幼い時に、母のお牧の方の縁である西福庵に縁があったことによります。西福庵は、称念寺の末寺でした。永禄5(1562)年貧しいながらも夫婦で、門前に寺子屋を開き、仲良く生活していました。『明智軍記』と言う書物には、称念寺住職と和歌を詠み、漢詩を作ったことが記載されています。称念寺は時宗と言う宗派ですから、詩歌に優れた住職が多かったのです。また「遊行」といって全国を旅する布教が特徴なので、光秀は天下を狙う情報を、この北国街道の称念寺門前でも、お坊さんから十分把握できたわけです。と書いてありました。

墓地の横にある石碑や建物です。

墓地の右奥の方に新幹線の工事をしています。

最後に墓地の駐車場近くにある案内板を紹介しました!

まだまだ説明不足ではありますが近くにお住まいの方や、福井に観光の際はゆっくりと見て回って下さい。

最後まで閲覧ありがとうございました😊

良かったら動画の視聴お願い致します🙇‍♂️

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