![朝倉義景墓所 一乗谷の戦国大名【動画有】](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/0F2E8759-3F7D-4CF6-B5C2-77B386B528C2.jpeg)
朝倉義景墓所 一乗谷の戦国大名【動画有】
福井県大野市泉町にある朝倉義景墓所に行きました。
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/FF2CCFD1-FE0F-4B9D-A9CD-DDCA0E7F8B3F.jpg)
墓所内には義景清水もあり、ふくいのおいしい水に認定されています。
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/E6328201-CD73-4978-840C-029E59744263.jpg)
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/2F542B1D-207C-451C-8B2A-069EC00445D5.jpg)
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/773256FC-66E4-4C5E-B646-FE049EA4094E.jpeg)
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/185506C3-EDAC-4979-AE51-B5391C54DCF0.jpg)
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/11BA46C4-E60A-4C1D-BBB9-36842F6F744D.jpeg)
朝倉義景は、一乗谷に本拠地を置く戦国大名である。幼名は長夜叉丸。天文17年(1548)に父の朝倉孝景が急死し、16歳で家督を継承した。元服後は孫次郎延景と称し、天文21年(1552)に室町幕府将軍足利義輝の「義」の一字を賜り、義景と改めている。
義景は、織田信長に対抗するため近江への出兵を繰り返し、天正元年(1573)の戦いに大敗すると、一乗谷に撤退し、最終的に大野郡の六坊賢松寺に逃れた。しかし、織田軍に通じた大野郡司である従兄弟の朝倉景鏡の襲撃に遭い自害した。
六坊賢松寺は既に廃寺となっている。場所は定かではないが、今の曹源寺(大野市明倫町)あたりにあったのではないかとの説もある。
江戸時代特有の形をしている五輪塔(義景墓)は、寛政12年(1800)、旧家臣の子孫によって曹源寺境内に建立され、文政5年(1822)に現在地に移設されたものである。
五輪塔の後方には、義景の近臣・鳥居景近と高橋景倍の墓がある。さらにその後方に、義景の母高徳院、同夫人の祥順院、次男愛王丸を合祀した墓が、明治44年(1911)に旧家臣の子孫によって建立された。
また、文政9年(1826)に建立された一乗後主廟碑、旧家臣瀧池家の墓、明治34年(1901)に荒廃していた墓所を有志らが募金し、修理した時の石塔がある。
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/78300ACB-DB35-42F0-A9B1-951179BCD16D.jpeg)
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/D47A61C3-42F3-4EC5-B086-9E4B2A50A3B8.jpg)
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/2928133A-1B3B-4F84-8F69-CAEE5C2E7407.jpg)
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/B07D775C-88E8-4867-BBD3-6CB18BFA80FD.jpg)
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/15B32091-05A9-4696-AA9E-1E87CE3F2EC6.jpeg)
![](https://3kjiro.com/wp-content/uploads/2021/04/5AE780E1-76E5-49E5-A08C-94BAAE0F5E94.jpeg)
少し分かりにくい場所にありますが大野に来たついでに寄ってみる価値はあります。大野城や御清水など他にもたくさんの観光名所が近くにあります。ぜひ足を運んで下さい。
最後まで閲覧ありがとうございました😊
良かったら動画の視聴お願い致します🙏