多賀谷左近三経の墓所 あわら市指定文化財【動画有】
福井県あわら市柿原にある多賀谷左近三経の墓所に行きました。
ここの周りは田んぼで墓所前の農道に車を駐車しました。車の通りもなく近くに民家も無いので大丈夫でした。
墓所は最近整備された様子で非常に綺麗でした。
正面に案内板があります。
漢字が多くて読む気になれませんでした・・・・反対側にも同じような案内板があります。
こちらも難しそうなので帰ってからゆっくり読もうと思いました。しかし今だに読んでいません・・・・( ;∀;)
墓所を入口から入ると左手に小さいお地蔵様がありました。6人いますがこの地蔵の説明は出来ません。
お墓らしき物が並んでいます。今更ですが多賀谷左近三経の墓所の説明をします。
多賀谷左近三経は、桃山時代の武将で、若くして下総国大田城(茨城県結城郡八千代町)3万石の城主になり、結城秀康(徳川家康の次男)の与力として仕えました。
秀康が越前68万石の領主になると、左近三経は秀康第一の重臣として3万石(後2千石加増)を給され、加越国境の鎮めを任ぜられました。
北陸道沿いの山十楽の島の台地に館を構え、支配の村は54村におよびました。
慶長12(1607)年4月に秀康が病死(34歳)した後、左近三経も同年7月、これまでの福井県の研究史では41歳で没したとされてきましたが、『多賀谷記』によると30歳で没したようです。亡骸は火葬され、遺骨は柿原区墓堂にある宝篋印塔に納骨されました。戒名は黔宗祥堅居士、菩提寺は柿原の専教寺です。
多賀谷家の跡目は子の泰経が継ぎましたが、大阪夏の陣後に泰経が没すると養子の弟は相続を許されず、柿原館は2代で廃止されました。しかし、後に末孫虎千代が五輪の供養塔を建立しました。平成3年3月に墓所が整備され、以後は区で管理してきましたが、現在は多賀谷左近三経公奉賛会が管理責任者に選任されて管理を行っています。
平成28年度に多賀谷左近三経石廟を復元するとともに再度墓所整備が実施されました。
与力(よりき)とは、江戸幕府における代表的な職名。
重臣とは、身分の高いおもだった家来。
かわいいサイズの石板です。
これが宝篋印塔なのかな??わからん!!
奥の正面にある建物です。中に何かありそうですね!!
一通り撮影も完了したので帰りましょう!動画も撮影していますので是非視聴お願いします。動画みたらここに行った気持ちになれますよ( *´艸`)
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↓↓多賀谷左近三経の墓所の場所です↓↓